松下幸之助は、経営の神様と称される、戦後の日本を代表する実業家です。
パナソニックを世界企業へと導いた松下氏の言葉には、深い洞察力と揺るぎない信念が込められています。
時代の壁を乗り越え、現代社会を生きる私たちにとって、指針となる金言が詰まっています。
彼の言葉は、ビジネス、リーダーシップ、そして人生そのものについて、多くのインスピレーションを与えてくれます。
松下幸之助名言集~人材育成・リーダーシップ
人を使うには、ほめて使う、叱って使う、批判して使うなどいろいろあるが、ほめて使う人が概して成功している。
半分は先輩から教えてもらう、半分は部下から教えてもらう。
百人までは命令で動くかもしれないが、千人になれば頼みます、一万人にもなれば、拝まなければ人は動かない。
部下に大いに働いてもらうコツの一つは、部下が働こうとするのを、邪魔しないようにするということだ。
部下の失敗はただ叱れば良いというものではない。失敗を自覚している時には慰めも又必要です。
人間は本来働きたいもの。働くことをじゃましないことが、一番うまい人の使い方である。
「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる。
「自分としては賛成しかねるのだけれど、全体で決まったことなので…」などというのは、責任者としてとるべき責任の自覚に欠けている。
競争も必要、対立することもあっていい。だが敵をも愛する豊かな心を持ちたい。
叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である。
君らの立場は一新入社員やな。しかし、意識は社長になれ
決心することが、社長と大将の仕事である。
師をそのまま模倣するだけでは師以上にはなれないけれど、その考えをよく吸収消化して自ら励んでいけば、師以上の人物になれるかもしれませんね。
叱るときには、本気で叱らんと部下は可哀想やで。策でもって叱ってはあかんよ。けど、いつでも、人間は偉大な存在であるという考えを根底に持っておらんとね。
失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった」というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。
人間というものは、気分が大事です。気分がくさっていると、立派な知恵才覚を持っている人でも、それを十分に生かせません。しかし気分が非常にいいと、今まで気づかなかったことも考えつき、だんだん活動が増してきます。
即断、即行できる見識と機敏な実行力は指導者に不可欠の要件だ。
礼儀作法は人間関係を滑らかにする。社会生活の潤滑油である。
松下幸之助名言集~理念・発想
知恵のポンプは汲めば汲むほど湧いてくるんや。
何としても二階に上がりたい、どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からは、ハシゴは生まれない。
知識なり才能なりは必ずしも最高でなくてもいい、しかし熱意だけは最高でなくてはならない。
志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。
たとえ平凡で小さなことでも、それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵します。
とにかく、考えてみることである。工夫してみることである。そして、やってみることである。失敗すればやり直せばいい。
どんなにいいことを説いても、そのなすところがそれに反していたのでは、十分な説得力は持ち得ない。
どんな賢人でも、その人ひとりの知恵には限りがあって、だから自分の知恵、才覚だけで事を運べば、考えがかたくなになる。視野が狭くなる。
なすべきことをなす勇気と、人の声に私心なく耳を傾ける謙虚さがあれば、知恵はこんこんと湧き出てくるものです。
愛のない経営が好ましくないように、愛なり慈悲の少ない政治は許されるはずがない。
一方はこれで十分だと考えるが、もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む。
何事もゆきづまれば、まず、自分のものの見方を変えることである。案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、他の見方のあることを忘れがちである。
学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である。
謙虚さを失った確信は、これはもう確信とはいえず、慢心になってしまいます。
才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことをおそれなくてはならない。
昨日の考えは、今日は一新されていなければならないし、今日のやり方は、明日にはもう一変していなければならない。
山は西からも東からでも登れる。自分が方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける。
志低ければ、怠惰に流れる。
思ったことが全部実現できたら危ない。3回に1回くらいがちょうどいい。
視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。
自分の金、自分の仕事、自分の財産。自分のものと言えば自分のものだけれど、これもやっぱり世の中から授かったもの。世の中からの預かり物である。
自分は自分である。何億の人間がいても自分は自分である。そこに自分の自信があり、誇りがある。
失敗とは成功する前に止めること。成功するまで続ければ必ず成功する。こけたら、立ちなはれ!
社会生活は日々これ戦い、日々これ苦難。その時に心が動揺するかしないかは、信念の有無で決まる。
十のサービスを受けたら十一を返す。その余分の一のプラスがなければ、社会は繁栄していかない。
人の言に耳を傾けない態度は、自ら求めて心を貧困にするようなものである。
失敗すればやり直せばいい。やり直してダメなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい。
人類の生命は無限。だからその未来は無限。だから、まだまだお互いに進歩しなければならないのである。
人の心は日に日に変わっていく。そして、人の境遇もまた、昨日と今日は同じではないのである。
人の長所が多く目につく人は、幸せである。
人は、あるところでは卑劣に行動しながら、別のところで高徳に振る舞うことは、できないのである。その些細な心の緩みやごまかしが、全体を蝕んでいくのである。人は騙せても自分自身は騙せない。
人間の知恵というものは、しぼればいくらでも出てくるものである。もうこれでおしまい。もうこれでお手上げなどというものはない。
誠意や真心から出たことばや行動は、それ自体が尊く、相手の心を打つものです。
青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである。
他人はすべて自分よりもアカンと思うよりも、他人は自分よりエライのだ、自分にないものをもっているのだ、と思うほうが結局はトクである。
対立大いに結構。正反対大いに結構。これも一つの自然の理ではないか。対立あればこその深みである。妙味である。だから、排することに心を労するよりも、これをいかに受け入れ、これといかに調和するかに、心を労したい。
熱心は、人間に与えられた大事な宝である。そして、この宝は、誰にでも与えられているのである。
美と醜は表裏一体。美の面に囚われ、反面の醜を責めるに急なのは、真実を知らぬ姿である。
力強さは使命感を持つところから生まれる。
悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
松下幸之助名言集~人生・生き方
人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。
人には燃えることが重要だ。燃えるためには薪が必要である。薪は悩みである。悩みが人を成長させる。
人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。
失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたい。
「天は二物を与えず」と言うが、逆に「なるほど、天は二物を与えないが、しかし一物は与えてくれる」ということが言えると思う。その与えられた一つのものを、大事にして育て上げることである。
いくつになってもわからないのが人生。わからない人生を、わかったつもりで歩むほど危険なことはない。
どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。
楽観よし悲観よし。悲観の中にも道があり、楽観の中にも道がある。
悩みはあって当たり前。それは生きている証であり、常に反省している証拠でもある。
感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。
逆境もよし、順境もよし。要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。
苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。
恵まれた生活も結構だし、恵まれない暮らしも結構、何事も結構という気持が大切だと思います。
「ありがとう」と言う方は何気なくても、言われる方はうれしい、「ありがとう」これをもっと素直に言い合おう。
私は死の直前まで、運命に素直に従いたい。
私は小さい頃貧しかったので、最初は腹一杯食べたい夢でした。丁稚奉公にいってからは、貯金して早く店を持ちたいと思いました。商売をはじめても、大きな会社など望みませんでした。一段上の夢を着実にこなしていっただけです。
時には常識や知識から開放され、思いつきというものを大切にしてみてはどうだろうか。
自らも楽しみ人々にも喜びを与える。大切な人生をこうした心構えで送りたい。
自分が利を得るために、不必要に自分の膝を屈することは決してすまい。なぜなら、そうして得られた応援や協力は、また目に見えないしがらみを生み、道を暗くするからである。
自分をほめてあげたいという心境になる日を持ちたい。
人がこの世に生きていく限り、やはり何かの理想を持ちたい。希望を持ちたい。それも出来るだけ大きく、出来るだけ高く。
人生には損得を超越した一面、自分がこれと決めたものには命を賭けてでも、それに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか。
正当以上の卑屈な努力までする必要はない。
石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。
素直な心とは、何物にもとらわれることなく物事の真実を見る心。だから素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をなすべきかということを、正しく把握できるようになる。つまり素直な心は、人を強く正しく聡明にしてくれるのである。
悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない。
万策尽きたと思うな。自ら断崖絶壁の淵に立て。その時初めて新たなる風は必ず吹く。
迷う、ということは、一種の欲望からきているように思う。ああもなりたい、こうもなりたい、こういうふうに出世したい、という欲望から迷いがでてくる。それを捨て去れば問題はなくなる。
鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス
冷静ほど、大事なことはないのである。
私が今日の大を成したのは、それはあらかた運ですね。一日一日を努力して生きてきただけのことです。強いて言えば、積み重ねがすべてです。人間万事、世の中すべては天の摂理で決まるのが90%、人間が成し得るのはたかだか10%ぐらいだと思っています。
私のこれまでの人生というものは、さまざまなことを教えてくれた多くの人々の「一言」によって支えられ、成り立っていると言っても過言ではありません。
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。
松下幸之助名言集~成功・失敗・挑戦
成功は運がよかったから。失敗は自分に力がなかったから。そう考えて経営をやってきた。
世の為、人の為になり、ひいては自分の為になるということをやったら、必ず成就します。
世間には大志を抱きながら大志に溺れて、何一つできない人がいる。言うことは立派だが、実行が伴わない。世の失敗者には、とかくこういう人が多い。
人生における成功の姿は、予知できない障害を乗り越え、自分に与えられた道を着実に歩んでいくことにあらわれる。
誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。
男は男、女は女。牛はモーで馬はヒヒン。繁栄の原理はきわめて素直である。
売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客を作る。
普通の努力では、チャンスをチャンスと見極められない。熱心の上に熱心であることが見極める眼を開く。
無限に発展する道はいくらでもある。要はその道を探し出す努力である。
機会というものは真に熱意を持って事に当たっておれば、随所にあるものではないだろうか。
松下幸之助名言集~経営論
経営には、勇気が必要である。その勇気は、何が正しいかというところから生まれてくる。
愚人の経営もいけないが、賢人の経営もいけない。衆知による経営でなければならないということだ。
よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。
経営学は知ることができる。しかし、生きた経営というものは、教えるに教えられない、習うに習えない、自得するしかないものだ。
経営者が社員の給料を増やすことは大事である。しかし、社員が魂を打ち込んで仕事ができる環境を整えることのほうが、さらに大事である。
何が正しいか、ということに生命を賭すことができないならば、経営者を辞したほうがよい。
まず熱意を人並以上に持ち続けられるかどうかが、経営者としての必須条件だ。これに知識をかけ算し、経験を足し算せねば真の知恵はわ いてこない。
なぜ経営をせねばならないかという、その「なぜ」がわからなければ、経営は成り立たない。
経営者にとって大事なことは、何と言っても人柄やな。結局これに尽きるといってもかまわんほどや。まず、暖かい心というか、思いやりの心を持っておるかどうかということやね。
いろいろ問題のあることがむしろ望ましい。経営者としては瞬時も休めるときがないという時代こそ、生きがいを感じるときである。
お互い経営をするものが、下手な経営、非能率的な経営、利益をあげない経営をすれば、そこが損をするだけではなく、その損失は全部の国民に影響するのである。
かりにある国がいちばんいい政治をやっているのであれば、代わってその国に政治をやってもらう。そして税金の一部をロイヤリティーとして支払う。それでも国費が三分の一になったら、国民は得である。われわれ経営者はそれをやっている。
だから経営の健全な発展を生むためには、まずこの経営理念をもつということから始めなくてはならない。
決断することが経営者の仕事である。だからといって先頭に立つ必要はない。最後部で指揮を執る。先頭に立ったら、ただの一人にすぎない。
もの知りだけでは経営はできない。山野をのり越え苦境を切り抜けた、その汗と涙のなかから知恵を生みだした者でなければ、経営を成功させることはできない。
経営がうまくいくのもいかないのも、国がうまくいくのもいかないのも、外部ではなく内部に原因がある。
経営が好きで、辞を低くして知恵を集めることができるものは、誰でも経営者になれる。
経営が好きであれば、かりに遊んでいても、そこからふっとヒントを得て、それを経営に有効に活かすことができる。
経営というものは、非常に躍動的な、しかも生きた総合芸術である。経営には真理が活かされ、善も美も活かされている。そして国家社会のために大きな貢献をするのが、経営である。こう考えると、経営というものは、ほんとうに崇高な総合芸術である。
経営には、理屈でない、目に見えない、言うに言えない要因が働いて、想像もできないような成果を生みだすことがある。
万一の場合に備えて、設備や資金などのダムをつくり、ゆとりをもった経営をすすめていくことが肝要である。そうすれば、いかなる経営環境のもとでも安定的な経営をすすめていくことができるだろう。
経営は「私」のものではない。私企業であるけれども、その本質は「公」である。単に会社あるいは個人の名において運営しているにすぎない。
経営をいちばん熱心に真剣に考えるのは、中小企業の主人公だ。大企業の経営者は困難を直接肌で感じないから、おのずと行動に力弱さが出てくる。
経営をすすめるとき、気宇(気構え)は大きく、神経はこまやかでなければならない。
経営者でも、政治を知らない人はダメである。政治家でも、経営を知らない人はダメである。
経営者というものは、平時にあっては後方で采配を振るっていればよい。しかし、非常時には、みずから難局にあたって率先垂範するべきである。
経営者に欠くことのできない条件は、体験、カン、判断の速さ、実行力、勇気の五つである。
経営者の立場に立つ人は、先憂後楽という考え方をもっていないといけないと思う。およそ経営者たる者は、人と共に憂い、人と共に楽しむということではいけない。人よりも先に憂い、人よりも後に楽しむという志がなければならない。
経営者は、いつも将来というものが頭にないといけない。五年後、十年後にどうなるか、どうすべきか。そのうえで、今どうしたらいいのかを考える。将来から現在を考えるのが、経営者としての発想である。
経営者は、つねに死を覚悟して、しかもつねに方向転換する離れわざを心に描ける人でなければならない。
経営者は、事を誤って事業が失敗したような場合には、自分が破産しても、たとえ一円でも従業員に渡すということを考えなくてはいけない。それが経営者の心がまえである。
経営者は、自分の商売から、業界、産業界、さらには、社会、政治、国家、世界まで広げて、一連の責任を自覚することが要望されている。
経営者は、社員に経営の成果を知らせる責任がある。社員の働きがあればこその成果である以上、それが社員に対する礼儀というものだ。
経営者は事にあたり、まず冷静に判断し行動しなければならない。そしてそのうえでそっと情を添えることが肝要である。
経営理念は、まず経営者が考えて考え抜いて、自身で心の底から、これだ、と思えるもの、さらに従業員も株主も納得できるもの、広く世間の人びとが賛成してくれるもの、そして天地自然の理にかなっているものでなければならない。
困難な仕事を避けてはいけない。困難な仕事に立ち向かい克服してこそ、真の経営者といえる。
私は60年にわたって事業経営に携わってきた。そして、その体験を通じて感じるのは経営理念というものの大切さである。いいかえれば“この会社は何のために存在しているのか。この経営をどういう目的で、またどのようなやり方で行なっていくのか”という点について、しっかりとした基本の考え方をもつということである。
私は経営を公明正大にやってきた。いかなる商品も売れるからといって不当な利益をむさぼったこともないし、この価格が適当適正だと考えたものについては安易な値引きをすることもしなかった。
事業経営においては、たとえば技術力も大事、販売力も大事、資金力も大事、また人も大事といったように大切なものは個々にはいろいろあるが、いちばん根本になるのは、正しい経営理念である。それが根底にあってこそ、人も技術も資金もはじめて真に生かされてくるし、また一面それらはそうした正しい経営理念のあるところから生まれてきやすいともいえる。
自分だけ儲けようという考え方は、どこかに弱さがある。社会とともに発展するのだ、世の中のためになる仕事をするのだ、と考え実践してこそ、経営に力強さが生まれる。
社会の発展に寄与するために何をなすべきかを、お互い経営者は考えねばならない。わが業界、わが企業という考えだけをすることは許されない。
商売であがった利益は、法律上は個人のものであるけれど、しかし実質的には社会の共有財産である。したがってその一部は自分の良識で使うことが許されるけれども、大部分は社会から預かった金である。財産があることは、それでさらに事業をしなければならん。
商売とは、感動を与えることである。
商売や生産はその商店や製作所を繁栄させることにあらず、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。
小利口に儲けることを考えてはあきません。世の中にぼろいことはないから、結局流した汗水の量に比較して、成功するわけです。汗もかかずして、成功することはたまにありますけど、それは極めて僥倖な人で、普通はない。
心を許して遊ぶようでは、経営者とはいえない。
人事問題は、経営を左右する。
水の流れも澱めば腐る。経営も日に日に新しい流れがなくてはいけない。そうでないと、衰え、進歩が止まってしまう。
大衆はきわめて賢明であり、きわめて公正である。われわれはつねにこの賢明にして公正な大衆の期待にいかに応え、いかに奉仕するかという点に、経営の根本をおいて仕事を進めなければならない。
経営とは、総合的な生きた芸術である。白紙の上に平面的に価値を創造するだけでない。立体というか四方八方に広がる芸術である。となれば、経営者はまさに総合芸術家。したがって単なる金儲け、単なる虚栄のための経営であってはならない。人生とは何か、人間とは何かという哲学がなければならない。そうでなけれぱ名画を描くことはできるものではない。
企業は存在することが社会にとって有益なのかどうかを世間大衆から問われていますが、それに答えるものが経営理念です。つまり、経営者は他から問われると問われざるとにかかわらず、この会社は何のために存在しているのかそしてこの会社をどういう方向に進め、どのような姿にしていくのかという企業のあり方について、みずからに問い、みずから答えるものを持たなくてはならない。言い換えれば、確固たる経営理念を持たなくてはならないということです。
誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。
苦難がくればそれもよし、順調ならばさらによし、という心づもりを常に持ち人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切だと思う。
現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えではどこの職場に変わっても決していい仕事はできない。
仕事が伸びるか伸びないかは、世の中が決めてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。
私は、失敗するかもしれないけれども、やってみようというような事は決してしません。絶対に成功するのだということを、確信してやるのです。何が何でもやるのだ、という意気込みでやるのです。
むずかしいことはできても、平凡なことはできないというのは、ほんとうの仕事をする姿ではない。
すべての人を自分より偉いと思って仕事をすれば、必ずうまくいくし、とてつもなく大きな仕事ができるものだ。
「自分の行う販売がなければ、社会は運転しない」という自信をもつことであり「それだけの大きな責任を感ぜよ」ということがしっかりした商売ができるかどうかの基本になりますな。
3%だったら、今までの延長線上でコストダウンを考える。しかし、3割下げるには商品設計からやり直さなければならない。そうだとしたら、3割は無理ではない。やってみよう
アイデアを生むと言っても、口先だけでは生まれない。これもやはり熱心であること。寝てもさめても一事に没頭するほどの熱心さから、思いもかけぬ、よき知恵が授かる。
いくら熱心でもムダなことやったらいけませんで。それがムダかどうかは、あなた自身で考えなさい。これはムダなことかどうか、一つひとつ検討しなさい。必ずムダなことをやっているに違いない。
せっかくの99パーセントの貴重な成果も、残りの1パーセントの止(どど)めがしっかりと刺されていなかったら、それは初めからなきに等しい。
私はこれまで、できるだけ無理をしないということで、経営をすすめてきた。いいかえれば、自分の力の範囲で仕事をしてきたということだ。
自分の仕事は、人の助けなくして、一日も進み得ないのである。
心くばりの行き届いた仕事は一朝一夕には生み出せない。やはり日ごろの訓練や躾がものをいう。
誰も争うために商売しているわけではありません。
適正な利益というものは、企業の使命達成に対する報酬である。だから、利益なき経営は社会に対する貢献が少なく、その本来の使命を果たしえていないといえる。
無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。
ぼくが奉公している時分に一人前になるためには、小便が赤くなるくらいにならないとあかんのや、そういうことを二、三べん経てこないことには、一人前の商売人になれんぞということを、親方から聞いた。どういうことかというと、商売で、心配で心配でたまらん、もう明日にでも自殺しようかという所まで追い込まれたら、小便が赤くなるという。そういうようなことをしてきて初めて一人前の商売人になる。だから尋ねるんやが、あなた、儲からん儲からん言うけど、小便赤くなったことあるか?
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