徳川家康は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した日本史上屈指の指導者です。彼の言葉には知恵と深い洞察が込められており、その名言は現代にも多くの示唆を与えています。
この動画では、徳川家康の名言集をご紹介します。彼の冷静さや戦略、そして人間味溢れる側面を垣間見ることができるでしょう。家康の言葉は日本の歴史だけでなく、リーダーシップや人生についても多くの教訓を含んでいます。
ぜひ、徳川家康の偉大さとその言葉の力に触れてみてください。
徳川家康名言集
徳川家康は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、日本の武将であり、江戸幕府を開いた初代将軍です。
家康は、約260年間続く江戸時代の礎を築いた人物として知られています。
政治制度や法整備、土地制度など、様々な面で改革を行い、平和な時代を築き上げました。
また、文化面でも、茶道や俳諧などの発展に貢献しました。
家康は、忍耐強く、冷静沈着な性格で、状況に応じて柔軟に対応できる人物だったと言われています。
また、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉で知られるように、“忍耐”の人でした。
そして、忍耐の中から、様々な“気づき”を得た家康の言葉からは、
組織を導くリーダーとして学ぶべき点が多々あります。
徳川家康の生き方からは、困難を乗り越える強い意志、情報を活用する知恵、
そして他者との関係を築くための柔軟な思考の重要性を学ぶことができます。
東照宮御遺訓
まずは、
一番有名な「東照宮御遺訓」の名言です。
東照宮とは家康公のことで、彼の遺訓として伝わっている言葉です。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり
この言葉を現代の言葉にすると、
人生とは、重い荷物を背負って長い道を歩いていくようなものだ。急ぐ必要はない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。心に欲が生じたときは、苦しかったときを思い出しなさい。
我慢をすることが無事に長く、安らかでいられる源となる。怒りを敵と思いなさい。
成功のみを知り、失敗を経験したことがない者に、害は降りかかるでしょう。
自分の行動を反省し、人の責任を責めてはいけません。足りない方が、やりすぎてしまったものよりは優れている。
というような意味です。
この中にある
「及ばざるは過ぎたるより勝れり」は、論語の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を、
家康なりに解釈した言葉だといわれています。
論語の方は、「度が過ぎることは足りないことと同じくらいよくないこと」といった意味ですが、
家康は「足りないことは度が過ぎるよりも優れている」と解釈を変えています。
次もやはり
「東照宮御遺訓」の中からです。
大勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く
「大勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く」
これは、
大勢の集団だと数に頼ってしまい、それぞれに油断が生じて、かえって力を発揮できなくなる。
一方、少数だと団結力が増し、力を発揮できるという意味です。
家康が子ども時代に安倍川の河原で子どもたちの石合戦を観戦していた時のことです。
片方は300人ほど、もう片方は150人ほどの子供達の戦いでした。
多くの見物人たちは三百人の隊が勝つと予測しましたが、家康だけはその半分しかいない少数の隊が勝つと予測しました。
「少勢の子どもたちは腹をくくり、隊列もよく整っている」という家康の判断通り、
結果は少勢の隊が勝利したということです。
我もし濱松を去らば、刀を踏み折りて武士を止むべし
次は、
家康公の浜松に対する熱い想いを伝える名言です。
「我もし濱松を去らば、刀を踏み折りて武士を止むべし」
三方ヶ原の戦いの前、家康は武田軍と一触即発の状態にありました。
織田信長は彼に岡崎城への退去を勧めますが、
「もし浜松を去るのならば、刀を踏み折って武士を止める」と断固拒否しました。
家康は信長に対して初めて反抗し、浜松に踏みとどまったといわれています。
この逸話から、浜松は家康が命をかけて守った街であることがわかります。
水よく船を浮かべ、水よく船を覆す。ただこのことを、よく心得られよ
次は、
家康が二代将軍・秀忠に度々言い聞かせたといわれる教訓です。
「水よく船を浮かべ、水よく船を覆す。ただこのことを、よく心得られよ」
この言葉は、
船を幕府、水を領民にたとえています。
「水つまり、領民は、船つまり幕府を浮かべる力もあるが、簡単に転覆させることもできる。
この道理をよくわきまえておくように」という意味になります。
常に庶民のことを重んじていた家康の人間性がうかがえる言葉です。
我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり
こちらは、部下を大事に思う言葉です。
「我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり」
豊臣秀吉は諸大名を集めた際に、「皆が大切にしている宝物は何か」と質問をしたそうです。
どの大名も、自分が所有する宝について述べましたが、
家康だけは
「私は片田舎の生まれで何も珍しいものは持っていません。
しかし、私のためなら命を惜しまない家来が五百ほどおります。
これこそが第一の宝だと思っています」と答えたそうです。
それを聞いた秀吉は、「そのような宝を私も欲しい」と述べたといわれています。
主君への諌言は一番槍より勝る
次も
部下を大事に思う言葉です。
「主君への諌言は一番槍より勝る」
一番槍とは、戦場で最初に敵陣に槍を突き入れることで、
戦国時代には、命がけの最も勇敢な行為として、評価をされました。
一方、陳言とは、目上の人の欠点や過失を指摘し、忠告することを意味します。
一つ間違えば、首をはねられてしまった時代に、
家康は、一番槍よりも陳言の方が価値があると言ったのです。
彼は、普段から家来の意見をよく聞いた上でさまざまな決断を下していたため、
三河以来の武士たちは、家康に遠慮なく意見していたといわれています。
リーダーの心構えを説いた家康の名言
こちらも、リーダーの心構えを説いた、家康の名言です。
「愚かなことをいう者があっても、最後まで聴いてやらねばならぬ。でなければ、聴くに値することをいう者までもが、発言をしなくなる」
リーダーと部下との関係性について触れた言葉にはこのようなものもあります。
「大将というのは敬われているようで、たえず家来に落ち度を探られているものである。
恐れられているようで、あなどられ、親しまれているようで憎まれている。
したがって家臣というものは、禄で繋いではならず、機嫌をとってはならない。
また、遠ざけても近づけてもいけない。そして、怒らせても、油断をさせてもならないものだ。
ではどうすればよいか。惚れさせることよ。
これを別の言葉で心服とも言うが、大将は家臣から心服されねばならないのだ。」
禄とは、給料のことです。つまり、お金です。
お金ではなく、好きになってもらうことで、
「このリーダーの力になりたい」と思わせることが、重要なのだと言っています
天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず
国を治めることに関する、家康の考え方を表す言葉と言えばこれ。
「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。」
家康が亡くなる2か月ほど前のことです。
病床の家康を諸大名が見舞うなか、家康は
「将軍・秀忠の政策がよくないときは、各々が代わりに天下を治めよ。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、我はこれを怨まず」
と語ったのだそうです。
つまり、天下は徳川一家のものではない。
悪政が行われ、万民が苦しむくらいなら、徳川政権は打倒され、優れた者が政治を執り行うことこそが理想だという意味が込められているとされています。
いかがですか?
家康は人間的にも寛容であり、自らの配慮や度量によって多くの大名や人々から信頼を得ていました。
彼は戦国時代の激動の中を生き抜き、政治や外交において高い洞察力と戦略を持った、非常に賢明で冷静な指導者でした。
家康は、緻密な計画を立て、長期的な視野を持って政策を推進しました。
また、しばしば対立する勢力との交渉や調停を行い、戦乱を避ける努力をしました。
そうした、家康の考え方を知ることのできる名言をお楽しみください
家康の考え方を知ることのできる名言
あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である。
いくら考えても、どうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む。
およそ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし。
われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり。
われ独り出頭して、一人して事を埒あけたがるように致す、これ大なる病なり。
一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼ(首の後ろのくぼみ)を見て、敵などに勝てるものではない。
我がために悪しきことは、ひとのためにも悪しきぞ。
願いが正しければ、時至れば必ず成就する。
決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。
最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。
最初に軽い者を遣わして埒があかないからといって、また重い者を遣わせば、初めに行った者は面目を失い、討ち死にをするほかはない。
重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では人は出来ぬ。
心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし
真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず。
人は負けることを知りて、人より勝れり。
人を知らんと欲せば、我が心の正直を基として、人の心底を能く察すべし。言と形とに迷ふべからず。
人間は、健康でありすぎたり、得意すぎたりする時にも警戒を要するのだが、疲れたおりの消極性もまた厳に戒めなければならない。
人生に大切なことは、五文字で言えば上を見るな。七文字の方は身のほどを知れ。
世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ。
戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が。
早まって相手の肚(はら)など考えて見ぬものじゃ。相手の肚など推測してゆくと、いつかそれに捲きこまれて、わが身の都合を忘れてゆく
相手の思惑を考えすぎると、悩ましくなり、気分よく過ごせなくなる。自分の望みに従えなくなり、不満になる。自分の考えが乱れ、いい判断ができなくなる
多くを与えねば働かぬ家臣は役に立たぬ。また、人間は豊かになりすぎると、結束が弱まり、我説を押し通す者が増えてくる。
大事を成し遂げようとするには本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。
敵だというのも自制心を忘れた怒りである。
怒ったときには、百雷の落ちるように怒れ
道理において、勝たせたいと思う方に、勝たすがよし。
得意絶頂のときこそ、隙ができることを知れ。
不自由を、常と思えば、不足なし。心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。
平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。
滅びる原因は、自らの内にある。
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)~ 徳川家康の旗印
平安中期の高僧・源信(恵心僧都)が著した「往生要集」に記された言葉で、「穢(けが)れたこの世を厭(いと)い、離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こいねが)う」という意味があります。
桶狭間の戦いで主君の今川義元が討たれ、大樹寺(愛知県岡崎市)に逃げ隠れた家康公は、松平家の墓前で自害しようとしました。
そのとき、当時の住職・登譽上人(とうよしょうにん)がこの言葉を説いて諭すと、家康公は切腹を思いとどまったといわれています。
以後、旗印として掲げられるようになりました。
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